長野県原村大石遺跡 藤内T期
現在私達が食べているジャガイモやさつま芋は、16世紀以降に西欧からもたらされたものだが、それ以前にはイモと言えば、もっぱら里芋かヤマノイモであったのはご存じだろうか。
縄文時代中期には、焼畑農耕から有機農耕へ転換し、根菜類、葉菜類、穀類を組み合わせることによって日常的な食料の確保は十分に達成されていたと考えられる。
この土器はイモが地上にせり出している様子を写実的に表現している。口縁部にまでせり出しているイモ−なかなか凝った表現である。
念入りにつけられた縄文で表現されている畑にイモ科種子が2つ配置されている。しかし、この土器の文様はそれだけではない。クリックして展開図を見ると、丸い2重種子を抱くように蛇文が口縁部までつながっている文様が2セットあり、一方は縁の外に盛り上がっている。この部分は円と三角の和合を示す構成になっているのが貴方にわかるだろうか?
正面から見ると和合文とイモ種子が見え、側面から見るとイモ種子のペアが見える構成である。シンプルだが、『和合から実りへ』 彼らの心が込められている。
長野県諏訪市荒神山遺跡 曽利V期
青菜の仲間といってよい写実的なものである。葉の葉脈はあたかもそこに葉を押しつけたかのように克明に文様がつけられている。葉そのものも写実的だが、土器全体を取り巻く葉の重なり具合もアブラナ科野菜の特徴を良く捉えている。
長野県岡谷市舟霊社遺跡からは、葉菜の株の中心にある小さな葉の跡が、土器に付いた状態で出土している。株を人間の手で開かなければ出てこない部分が残っていたことから、彼らは青菜の仲間を食用にしていたことが明らかになっている。現在の白菜は中国原産とされ、様々なアブラナ科が混ざり合い紀元前後に大陸から伝えられた栽培種とされている。
しかし、品種改良された栽培種以前に、青菜の仲間が日本に存在していたとしても不思議ではない。 旧石器時代にユーラシア大陸と日本列島は陸橋でつながっていたのである。
雑穀農耕にアワ、キビ、ヒエなどのイネ科植物は欠かせない要素である。日本列島に水稲が伝わって以降も、これらの植物は農耕民を支える貴重な存在だった。
ヒエは冷涼・湿地を好み、耐寒性が強く、痩地にも適応する。昭和20年頃までは、冷害に強いことから、全国の山間地で栽培されていたのはご存じだろうか?
図をクリックして欲しい。
2つの展開図は同じ遺跡から出土した別々の土器である。
(展開図下)左から右に向かって花が咲き、徐々に実るに従って穂先が重くなり垂れ下がる様子が表現されていて、植物の1サイクルを3つの場面に展開してまとめてデザインしている。逆U字の連続はヒエなどイネ科植物の葉の特徴をシンプルに表現していて、短い横線は2つの土器に共通している。
縄文人−彼らの視点は、「そこに実ったものをただ取って食べて終わる」という人生観ではない。 植物と人が育ち、実っていく過程を見守りつつ、未来永劫に世界が続くこと−それこそがすばらしい−それが彼らの価値観の支柱なのである。それは私たちが忘れかけている「世界」であり、「農耕民の精神」でもあるのだ。