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きっかけ

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はじめまして。記号考古学者 武居竜生です。

少し長い文章になりますが、お付き合い下さい

 もともと縄文土器を見るのもいやでした。考古学そのものに良いイメージがなかったからです。仕事そっちのけで遺跡発掘にあけくれ、売れない本を自費出版する父。時代は高度成長期で華やかなのに、いつまでも貧しい我が家。私はそういう民間考古学者の父のもとで育ちました。

 私が幼いころ、父に連れて行ってもらったのは上野動物園でも富士急ハイランドでもない近くの考古館でした。父が考古館の職員と長々と話し込んでいるあいだ、私は薄暗い考古館の中で、ぽつんとひとりで土器を眺めていました。縄文土器を見るとそんな当時の寂しい光景がありありと浮かんできます。だから考古学に興味はあっても、それを避けてきました。

 高校を卒業して上京し、バイトをしながらなんとか大学を卒業し、当時としては最先端の分野だったコンピュータのソフトウェアを製作する会社に就職しました。世の中の様々な現象を情報化し、原因と結果にモジュール化し、その中身を考える。ソフトウェア開発はそういう知的創造作業の連続でした。

 月日が流れ、30代半ばにさしかかったある日のこと。何かのきっかけで縄文土器の写真集を見てふと思いました。

  勝坂式と呼ばれる縄文土器の複雑な模様は、何かの意味を記号的に表現しているんじゃないか? もし意味と表現のルールさえ解れば、彼らが何を考えてこんな模様の土器を作ったのか理由がわかるんじゃないか?

 いくら幼少の頃から勝坂式土器を見慣れていたとはいえ、そんな雲をつかむようなことを素人が証明できるわけがありません。縄文土器専門の研究者でさえ、土器の模様の意味などという不確定なことに対しては手を付けかねていましたのですから。つまり模様の意味を専門に研究している研究者は当時ほとんどいなかったのです。

 ところが、そんな状況の中でひたすら土器の模様の意味を研究している研究者がいました。それが父であり民間考古学者であった武居幸重でした。
 私はあれほど避けてきた考古学に、皮肉にも父と同じテーマで興味を持ってしまったのです。

 それならば話は早い。父に教えを乞えばいいのはわかっていました。でも結局、素直に教えてくれとは言い出せませんでした。しかたなく数年かけて考古学を学び、父の難解な本を解読し、解釈を整理し、幼少の頃のように土器をじっくり見たり、記号のしくみや成り立ちについて理解を深めました。

 ある日、地元の国立史跡「尖石遺跡」の図録を見ていたとき、まるでパズルのピースがピタっとはまるように一つの模様の意味が理解できたと思えたのです。すると別の模様もつじつまの合う意味が当てはまります。それを記号の意味とルールとして整理すると、今まで別々の形や様式の土器だと思われたものが、ほとんど同じ構成として整理され、土偶までもがシンプルな意味の造形物として整理されてしまうことに気が付きました。 それはまるで一つのドミノが倒れると次々に別のドミノが倒れ、あっけなくすべてが倒れてしまったようでした。

 私はその内容を『(続)縄文心象』(2009年)という小冊子にまとめましたが、当時はまだ縄文時代は狩猟採集社会であり、農耕文化が存在したという主張については否定的な意見が多く、理解していただける人も少ない状況でした。
しかし近年、考古学の調査方法が進化し、様々な分野の研究者が情報交換できるようになってきました。縄文時代は狩猟採集だけで成り立っていたのではなく、農耕・栽培によって生活が安定化していたのではないかという見解も徐々に増えつつあります。また、模様の意味の裏付けや関連付けになるような発見も増えてきており、現在なら勝坂式土器の模様の意味やルールを多くの人と共有できると考えてこのサイトを立ち上げました。

 5,000年前の文字もない時代のことなんて所詮わかりっこない。そういうご意見は百も承知です。しかし、それが本当にわからないことなのかどうか、このサイトを見ていただく方々と一緒に考えていきたい思っています。

ちなみに記号考古学とは私がつくった造語です。日本では記号考古学という分野はまだ存在しません。しかし、記号学的なアプローチの考古学はこれから徐々に認知されていくと確信しています。だから私は日本ではじめて記号考古学者と名乗っています。

このサイトは(続)縄文心象(2009年)の内容をもとに構成されています。内容を引用する場合はお手数ですが出典明示をお願いいたします。