小さい頃から縄文が嫌いでした。土偶も嫌いでした。土器を見るのもいやでした。
私の家は自営業の印刷屋でしたが、父は仕事そっちのけで自然保護運動や遺跡発掘のボランティアなど、お金にならないことばかりに没頭していました。当時の日本は高度成長期の真っ只中で、夏休みになると友達の家族は上野動物園や富士急ハイランド、海水浴に出かけていました。夏休みが明けると友達がその話で盛り上がります。「竜生はどこに行ったんだ?」と聞かれるのがたまらなくいやでした。どこにも連れて行ってくれなかった父との唯一の外出先は、地元の考古館だったからです。
父が考古館の職員と長々と話し込んでいる間、私はひとりで土器や土偶を眺めていました。どれも得体の知れない異様な形です。館内が薄暗くなってくると、それらは一層不気味に見えてきます。こども心に、自分の将来に明るい兆しを感じることはできませんでした。
私はそんな家から一日も早く逃げ出したいと思っていました。高校を卒業して文字通り逃げるように上京し、アルバイトと奨学金でなんとか大学を卒業して、システム開発の会社に就職しました。毎日が忙しく、無我夢中の日々。
ある日、書店で縄文土器の写真集が目に入りました。あれほど見るのもいやだったのに、なんとなく気になります。ページを開くと、見慣れた土器がそこにあります。しばらく眺めているうちに、忌まわしい存在だったはずの土器に突然興味がわいてきました。「この複雑な模様や造形には法則性がありそうだ。意味と表現のルールさえわかれば、彼らが何を考えてこれを作ったのかわかるかもしれない。」気がつくと写真集に見入っていました。
父は生活を犠牲にしてまで縄文の研究を続け、独自の解釈を本にまとめた独立研究者でした。私は考古学からはるか遠くに逃げてきたはずなのに、気がつけば縄文の本を読み、幼少の頃のように考古館で土偶を眺めはじめていました。
ある日、考古館の図録を眺めながら、模様がパズルのピースのような意味の断片になっているという考えが浮かびました。大きさや形の違いはあっても、さまざまな土器の模様に共通する構造がある。土偶にも同じ共通性がある。父が土器の意味を解釈してきたのに対し、私は模様や造形を記号の体系として読み解こうとしました。父の仕事を乗り越えたいという思いが、そこにはあったと思います。
しかし、記号的な解釈を重ねるほど、ある壁にぶつかりました。どれほど精緻に読み解いたつもりでも、それが正しいと他者を説得する根拠がない。解釈は解釈を呼び、確かな地面にたどり着けない。父と同じ道を、手法を変えて歩いているだけではないのか。
転機になったのは、土偶の壊れ方に目を向けたときでした。土偶の多くは壊れた状態で出土します。データを調べていくと、その壊れ方に明確な偏りがありました。腕や脚、頭は高い割合で失われているのに、胴体は残っている。しかもその傾向は、形も大きさも異なるあらゆる類型の土偶に共通していました。これは解釈ではなく、数字として示せる事実です。
その先に見えてきたのは、形の異なる土偶を縄文の人びとが同じルールで壊していたという事実でした。そしてそのルールは、土偶の作り方にも貫かれていた。数字の向こうに、彼らの世界が見える。このサイトは、そのことを伝える場です。
