縄文農耕へのカウントダウン

 縄文時代中期の勝坂式土器の中から、続々とダイズや小豆の圧痕が見つかっているようだ。それだけではない。土壌からもダイズや小豆の炭化種子が続々と見つかっているようなのだ。
 土器の中から大豆が見つかった例としては、2007年に山梨県北杜(ほくと)市の酒呑場(さけのみば)遺跡で出土した縄文時代中期の土器から、大豆の圧痕(あっこん)が発見されたニュースはまだ記憶に新しい。取手の部分に大豆が意図的に埋め込まれていたということが話題となり、当時の栽培植物の中のダイズがたまたま見つかったというような扱いだった。
 ところがその後のレプリカセム法というシリコンでかたどった圧痕を電子顕微鏡で調べる調査の技術進歩と、研究者の増という環境も相まって、どうやらダイズの圧痕は酒呑場遺跡の土器だけではなく、かなりの頻度で勝坂式土器の中から見つかるようになっている。

 また、土器以外にも土壌の中からもダイズや小豆の炭化種子が続々と見つかっている。長野県の考古学会長の会田進氏も、岡谷市の遺跡の土壌のフローテーション調査(乾燥した遺跡の土壌を水に入れて浮いてきた種実を回収する方法) と土器の圧痕調査を通じて、「やればいくらでも種実圧痕が出てくるので、もはやマメはあって当然のことと思っている…」とまで私信で述べているようだ。会田氏は「今回の発見は縄文農耕論を立証するものとは言えない。」と公式発表しているが、農耕論者でなくても中期の土器や遺跡土壌からは、今までメジャーフードとして想定されてきた栗やドングリ以外のダイズ、小豆が検出され続けていることを認めざるを得ない状況なのだ。

 なぜこのような事態になっているのか。

 それは、残りやすいものだけが残っているという現実をそのまま当時の生活の実態としたのが一因しているようだ。中身だけ食べて硬い殻が廃棄されるオニグルミやドングリやクリと、種子そのものを食べてしまうダイズやアズキとでは、遺跡に残される確率が格段に違う。そういう残りやすさの度合の違いを考慮するまでもなく、今までの発掘では検査方法の限界からマメ類自体はきわめて少なかった。ところが調査方法が進化したことで、土器や土壌からの出現率が非常に高くなってきたというわけなのだ。
 例えば、ドングリ類がまとまって発見されるのは、ドングリピットと呼ばれる貯蔵穴であり、これは考古学者にとっては低湿地で見つかるべきものとして躍起になって探す好対象となっているようだ。結果的に多数の貯蔵穴が見つかることになる。しかし、台地では炭化しないかぎりは保存されないから、保存目的のものとそうでないものの保存率の違いは歴然としている。「残りやすいものだけが残っている」だから残っているものだけで判断するならば、クリやドングリがメジャーフードということになってしまう。

 レプリカ法で数々の実績をあげ続けている熊本大学の小畑弘己教授はその著書「タネをまく縄文人」でこう述べている。

 「北陸地方・中部地方・西関東地方のダイズやアズキの圧痕のサイズから見て、縄文時代中期に大型化することから、縄文時代前期の終わりごろに栽培が開始され、中期には大規模な定住集落が中部地方と西関東地方を中心に展開する。やがて縄文時代中期末には遺跡数が減少し、規模も小規模になるが、その頃から徐々に九州に向かって西日本に大豆が展開し始める。(一部要約」

 今まで「縄文農耕」と言えばメジャーフードが特定できないばかりに異端視されてきた。しかしあと数年もすれば、「狩猟採集中心」「栽培」ばかり言っていると逆に異端扱いされかねないことになるのだろうか。