第12回 母胎・大地

 第11回の講座では出産の映像を見ながら、土器が母胎になぞらえて作られていたことをご紹介しました。
 
 今になってこんなことを言うのもなんですが、あの映像ではまだ出産は終わっていませんでした。たしかに子どもは無事に生まれたのですが、映像に映っていない重要な出来事がまだ続いていたのです。

後産
 
 それは後産(のちざん・あとざん)と呼ばれるものです。

 子どもが母胎から出ると、再び陣痛が起こり、子宮や膣内に残った胎盤やへその緒をきれいに排出するために子宮全体が収縮します。そして胎盤とへその緒が子宮から剥がれ落ち、母胎から出て来ます。これが後産です。
 病院での出産は医師や助産師が後産の処置を施すための体制を整えています。しかし、薬の利用や分娩技術が現在ほど発達していなかった時代では、速やかに後産を終えることは母胎の命を左右する重大なことでした。
 縄文時代中期に、胎盤が出てくるまでにへその緒が切られていたのかは分りませんが、後産を終えた子どもとへその緒と胎盤は次の画像のようになります。

 私達が映像や画像でよく目にするのは、へその緒が切られた後の子どもです。胎盤を見ることは殆どありませんから、驚いた方もいるかもしれません。
 
 この画像にある胎盤は土のついた根のようであり、へその緒は茎で、子どもは実のようです。これが母胎の中で成長するのですから、母胎は命を育む大地と同じ存在だと感じます。

 しかし、それは私個人の印象であり、この文章を読んで頂いている方がどのように感じるのか分かりません。ましてや5500年前の人々がどう感じたのか分りようもありません。

 ところが、 当時の人々がこれらをどう考えていたのかを知るためのヒントになる土器があります。

埋甕と再生観念

 このサイトで紹介している遺跡から、竪穴式住居の入り口とみられる場所に、土器が埋められた状態で見つかることがあります。これは埋甕(うめがめ)と呼ばれ、出産を終えたへその緒や胎盤、時には死んでしまった子どもが埋葬されていたと考えられています。


中ッ原遺跡Ⅳ次第105号埋甕 発掘報告書
百瀬 一郎・守矢昌文より

 今までの講座で繰り返し述べてきたことですが、 土器は母胎になぞらえて作られていました。 ですから、この土器もただの器(うつわ)ではなく、母胎として扱われていたはずです。へその緒、胎盤、子どもはいずれも母胎の一部と考えられていたので、土器に入れることで母胎に戻されたことになります。さらに植物と同じように、大地に戻って再生するよう埋められたと考えられます。

埋甕の再生観念

私たちが教科書で習った15000年前の縄文時代は、獣を捕らえたり、魚を獲ったり、ドングリや栗を拾うような狩猟採集を中心としていた時代でした。食糧のすべては自然の中で再生されていたはずですから、おのずと再生観念が生じたのはあたり前のように思えます。
 また、日本列島では4万年前の人間の痕跡が見つかっていますから、それ以来ずっと出産は続いてきたはずです。それが埋甕という慣習になったとしても何の不思議はないように思えます。
 しかし、16000年前から再生観念があり、4万年前から出産も続いていたのに、なぜ5500年前に埋甕の慣習が始まったのでしょうか。やはり、それだけでは説明になりません。 きっと何か別の理由があるはずです。

ダイズ、アズキ、エゴマ
 
 近年、埋甕が見つかるような遺跡から新しく発見されているのがダイズ、アズキ、エゴマなどの植物性の食糧です。発掘調査技術の進歩により、急速に発見例が増えており、最近では下記のような研究結果が発表されています。

「アズキ亜属種子が多量に混入する縄文土器と種実が多量に混入する意味」  会田 進・酒井幸則 ・佐々木由香 ・山田武文 ・那須浩郎 ・中沢道彦

  • 日常の生活の中にマメ類やシソ属果実が常態としてある
  • 日常の食生活の中に大きなウエイト占めている
  • 豊富な収穫量があった

明治大学黒耀石研究センター紀要 「資源環境と人類」より

 研究によれば、それらのマメ類などは人間が手を加えて育てたものであり、大量に収穫され食糧の中で大きなウエイト占めていたとされています。特にダイズは蛋白質が豊富であるため、マメ類やシソ属の実などでも生活が成り立っていたのではないかというわけです。作物を育てて収穫していたのであれば、子どもやへその緒や胎盤も、大地から成長する作物のように再生するものと考えられて、埋甕へと発展した可能性はあります。

 しかし、植物性の食糧が見つかっているものの、どのようにそれを育てていたのか分かっていないため、主食だったのかわからないという意見もあります。

 それでは植物性食糧の他に何か手がかりはないのでしょうか?

土器・土偶の共通テーマ

 マメ類などの食糧の他に見つかっているものと言えば、このサイトで紹介しているような土器や土偶です。
 それらが示していたのは、男女が愛し合い、妊娠し、出産するという共通テーマでした。当時の生活が作物を育てて収穫することが中心だったのであれば、共通テーマは作物の成長になぞらえて考えられていたはずです。

  • 男女が愛し合うことは種を撒くこと
  • 妊娠することは作物の芽が出て成長すること
  • 子どもが生まれることは収穫すること
人間と農耕の共通性

 しかし、それだけでは決め手に欠けます。植物性食糧の獲得と人間のライフサイクルが一体化していたことを示す具体的な証拠はないのでしょうか。

アズキが混入した埋甕

 次の画像は長野県下伊那郡豊丘村の伴野原遺跡の埋甕です。


伴野原遺跡33号住居址埋甕 会田 進 他

 発掘後の破片をX線写真を撮ったところ、土器の中に160個のアズキが混入していたことがわかりました。現段階では偶然か意図的だったのか分かっていませんが、仮に偶然の混入だったとしても、土器を製作する過程で明らかに製作者が気がつく程度の量であり、あえてそのまま土器として作ってしまっていることが確認されています。

伴野原遺跡33号住居址埋甕 破片展開  会田 進 他

 土器の外側と内側あわせて160個のアズキが混入していたのですから、いたるところ穴だらけです。製作する段階からすでに日用品としての実用性は低かったと考えられます。

伴野原遺跡33号住居址埋甕 内外種実痕 会田 進 他

 なぜ、このような土器が作られてしまったのでしょうか。

 これはあくまでもこのサイトの考えですが、この土器は最初から埋甕に使うために作られたのではないでしょうか。また、 研究でも示されているように、 粘土に混入していたアズキは、日常生活に当たり前のように植物性食糧が存在していたことを示しています。
 この埋甕は、男女が愛し合い、妊娠し、出産するというサイクルと、作物中心の日常生活が切っても切れない関係にあったことを示す具体的な証拠だと考えます。

まとめ 

 今から5500年前から約1000年間、中部高地や関東を中心とする地域では、作物中心の生活をしていたと考えられます。なぜその地域だったのかという理由については別の機会に譲るとして、当時の人々は次のような観念を持っていたと考えます。

  • 子ども、へその緒、胎盤は母胎の一部であり、母胎と大地は同じ
  • 人間のライフサイクルは作物を育てて収穫するサイクルと同じ
ライフサイクルと農耕サイクル

作物中心の生活と拡大する集団 

 作物を育てて収穫していたのですから、最適な時期に種をまき、最適な時期に収穫するのは当然です。同じ時期に同じことをするのであれば、少人数より集団で一斉にやれば効率的です。また、鳥やネズミや鹿などの害獣から作物を守るにしても、より多い人数で分担するほうが負担が少なくて済みます。
 しかし、集団の人数が増えれば作業効率は上がりますが、1人分の食糧は減ってしまいます。そこで、作物を育てるエリアを増やして増産する必要があります。このように、ひとたび拡大しはじめた集団は次々に拡大再生産せざるを得ません。

 次の図は、縄文時代の時期別・地域別の遺跡数のグラフです。中部・関東地域すべての県は網羅されていませんが、縄文時代中期には飛躍的に遺跡数が増加したことがわかります。(弥生時代に近づくにしたがって遺跡数は減少の一途をたどります。現段階では理由はわかっていません。)

縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)

 縄文時代中期の急激な遺跡数の増加を考えると、なぜ縄文土器や土偶が、あれだけ生命の誕生にこだわって作られていたのか理由が見えてきます。
 当時の人々は集団の維持と拡大を望んでいたはずです。いや、望んだというよりも、それが宿命だったと言ってもいいかもしれません。
 再生を示す土器や土偶が大量に作られ、埋甕が慣習化されたのも、そうした背景があったからだと考えます。

 私がこの画像を見たときに、植物のように見えたのは偶然かもしれません。しかし、当時の人々がこれらを母胎の一部であり、植物のように再生するものと考えたのは決して偶然でなく必然だったと考えます。

長野県茅野市尖石縄文考古館
長野県諏訪市博物館長野県岡谷美術考古館
長野県富士見町井戸尻考古館
山梨県北杜市考古資料館
山梨県笛吹市釈迦堂遺跡博物館
山梨県甲府市山梨県立考古博物館
山梨県南アルプス市ふるさと文化伝承館