『土偶を読む』を読んで

 もしも博物館の部屋に入って、壁に大きくXと描いてあったら何を想像しますか。

「バツ? エックス? それともただの目印?」

それだけではさっぱり意味がわかりません。

 土偶も同じです。乳房がついていたり、腹が膨らんでいるので、妊婦らしいことはわかりますが、人間とは思えないような顔だったり不可解な模様がついていたりします。また、土偶は地母神を表していると言われていますが、そもそも地母神なんて見たこともありません。つまり、私たちにとっては、土偶も壁に突然書かれたXと同じような存在です。

 話は博物館の部屋にもどりますが、Xをよく見ると、その両側に小さく○と△が書いてありました。「 ○ X △ 」です。これでようやくわかりました。このXはバツです。

つまり、どのような情報が与えられるかによって物の見え方が決まってきます。

竹倉史人氏の「土偶を読む」では、土偶についてこう述べています。

・土偶が妊婦や地母神を表しているのは疑わしい。

 いくつかの根拠をあげて、土偶が妊婦でないことが述べられれば、土偶についての情報をほとんど持たない私たちは、土偶が妊婦でないと思えてきます。

さらに竹倉氏は次のように述べます。

・土偶の頭部は、当時盛んに食べられていたと思われるものにそっくりである。

 そして土偶の頭とそっくりな食材の写真が並べられます。さらにその地域でそれが食べられていた可能性が述べられます。

 私たちは見た目の似ているものを似ていないと否定することができません。人間の認識・判断のシステムは、限られた時間で判断を完了しようとします。まず見たものを直観的、知覚的に処理し、そのあと論理的に判断します。私たちの頭脳は土偶の頭が食材に似ていることを瞬間的に認識して、次にその説明を理解するための判断をします。
 冒頭で博物館の壁に描かれたXが○と△によって「バツ」に見えたのも、脳がなるべく早く次の判断に移れるためのしくみだったのです。

 だから私たちには土偶が食材に手足のついたフィギュアのように直感的に見え、次に説明でその認識を判断します。これは人間の認知システムに基づいた結果なのです。つまり「土偶を読む」は竹倉氏の意見が正しいか正しくないかということと無関係に、情報の少ない読者であればあるほど説得力が感じられるように構成されているのです。

 出版元である晶文社は、この本は発売から数週間で15000部を売ったとしています。本が出版される前に竹倉氏をNHKが取り上げたことも大きいかもしれません。土偶は人形ではないとか、謎を解明したというセンセーショナルなキャッチコピーによるところも大きかったでしょう。それに加えて、今述べたような納得感を得やすい本の構成も大きな要因だったと思います。

 しかし、この本が売れた理由は、もっと深いところにあると思います。

 それはこの本が私たちの不安を解消してくれるかもしれないという期待感があったからではないでしょうか。

 その不安とは、少し大袈裟に聞こえるかもしれませんが私たちのアイデンティティーです。

 私たちは、DNAの何%を占めるのかわかりませんが、縄文時代を生きた人々の血を引いているということは薄々理解しています。ところが縄文時代といえば、不気味な土偶や土器のオンパレードで、誰もその意味を説明してはくれません。
 確かに教科書で縄文時代のことを教わりますが、祖先が何を考え、どのような感情を持っていたのか、まったくと言ってよいほどわかっていません。私たちは土偶どころか、祖先の情報をほとんど持っていないも同然です。
 それでも私たちは心のどこかで、彼らが常識で理解できるような人間であってほしいと願っています。それを解明したとなれば知りたくなるのは当然です。
 しかもこの本には実際に読めば、そう思わせる安心要素が多分に含まれています。本の発売前にも関わらず、NHKが関東地域限定でありながら10分の時間をかけて、考古学の専門でない在野の研究者を取り上げたことも頷けます。

・それでは竹倉氏は、策略的に論理構成したのでしょうか?
・出版社もそれを承知で宣伝したのでしょうか?
・NHKは日本人の一部をひとまず安心させることに一役買ったのでしょうか?

 違います。それは結果としてそうなっているだけです。

・それでは、たまたまいくつかの偶然が重なって「土偶を読む」が話題になったのでしょうか?
 
 ところがそれも違います。

 竹倉氏の論と「土偶を読む」は、現代に生まれるべくして生まれたのです。

 この本が発売された2021年5月にユネスコの諮問機関が北海道・北東北の縄文遺跡群を世界遺産へ登録することを勧告しました。いよいよ縄文時代が日本文化として世界に向けて発信されようとしています。ところが北海道・北東北の縄文遺跡群をはじめ、日本列島の各地域に存在する遺跡群では、どのように食料が獲得されていたのか、はっきり分かっていません。たとえば、縄文時代に農耕が始まっていたのか、いつまで狩猟採集にだけ頼っていたのかさえはっきり分かっていません。つまり、生活の実態がよくわかっていないのです。研究者の中には弥生時代からが日本文化であって、それ以前は文化ではないとさえ公言する人もいます。
  
 それでは私たちはどうでしょうか。祖先がどういう人間だったのかということに真剣に向き合う機会がありません。研究者も議論を戦わせる土俵がありません。どうせわかるわけがないとか、証明のしようがないとか、簡単に言ってみればわからないものはわからないという状況が続いています。
 この状況が続くかぎり、私たちはいつまでたっても祖先の本当の姿を知ることはできません。そんな状況をよそに、縄文は世界に向かって文化遺産としての価値を問われているのです。
 それが「土偶を読む」が生まれた土壌であり理由です。私たちは、私たちにとって最もわかりやすい情報を求めています。そして私たちの祖先のイメージが欠落し続けている限り、別の情報が私たちの望む形で現れ、私たちが信じたいことを投影し続けるでしょう。

 竹倉氏は「土偶を読む」で自ら立てた仮説的推論を解明したと述べています。
 仮説的推論とは、その推論によって、どれだけ目の前に起きていることを説明できるかということが重要であることは言うまでもありません。竹倉氏もそのことに言及したうえで、関東と東北の膨大な量の土偶から幾つか事例を選択し、仮説による説明を加え、その結果解明したと述べています。

 しかし、仮説的推論とは、目の前に起きている出来事の中からどれだけ説明可能な事例があるかではなく、説明のつかない事例までもが、その推論によって説明可能になるのかが問われるのです。
 例えば、引力が存在しているという仮説的推論は、落下しているものにも静止しているものにも同じように引力が働いていることを説明します。引力は落下しているものだけに適用されるのではありません。静止しているものにも適用されます。
 つまり仮説的推論は、なぜ同じ現象が起きていないかということを「説明できなければならない」のです。そう見えるものだけに仮説が適用され、そう見えないものに同じ仮説が適用できないのであれば仮説的推論ではありません。

 ですから竹倉氏は「土偶を読む」によって土偶の仮説を提起したのみにとどまり、食材に見えない土偶を含めて、いかに多くの事例を推論を適用して説明できるかということを示す必要があるのです。
 もし、それができないのであれば「土偶を読む」は仮説的推論でなく印象論です。印象論は論証が不要なので、何かを解明したということにはなりません。
 この本は提起としては面白く、文章力も表現力もあり読ませます。それだけに、竹倉氏の今後の土偶の論証に注目したいと思います。

 私も在野にありながら2008年から土器と土偶の意味を研究しています。縄文時代の人々の生活がどのようなものだったのか、土器や土偶の模様や造形の意味を考えて仮説的推論をたて、それをサイト「縄文記号の世界」で公表しています。
 仮説は基本的に土器や土偶がどう見えるのかを手掛かりにしていますから、どのような情報を前提とするかによって土器や土偶の見え方が決まってくるかは述べたとおりです。また、その意味では、私も竹倉氏と同じように、論証の信憑性を問われる側にいます。
 私の立てている仮説的推論も、縄文時代すべての土器や土偶を説明しうるわけではありません。「俺の土偶論」かもしれませんし、事実そう思っている方も大勢いるかと思います。 
 しかし、ただ沈黙しているだけでは自分のルーツに近づくことはできません。今後も印象論に陥ることなく、縄文時代の人々が何をどのように認知したのか、論証を続けて参りたいと思います。